一般人の備忘録

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アメリカ映画に表現される「ジェンダー」―『プラダを着た悪魔』と『マイ・インターン』を観る―

Ⅰ はじめに

 今日では、ジェンダーや女性の社会進出という言葉が強く叫ばれ、社会に対する多様性が強く求められている。かつてに比べては、女性は社会へ進出してきたといえるが、未だに女性は社会的に弱者として認識されている。では、アメリカ映画において働く女性はどのように描かれているのか。本稿では、アン・ハサウェイが主演を務める『プラダを着た悪魔』と『マイ・インターン』の二作品から、アメリカ映画に表現される働く女性像を捉える。

 

Ⅱ 『プラダを着た悪魔』における働く女性

 この『プラダを着た悪魔』は働く女性を描いた作品であり、それがどれほど困難であるのかを描写した作品でもあるように私は。アン・ハサウェイ演じる物語の主人公であるアンドレアは、田舎から都会へ訪れ、ニューヨーカーとして新たな世界へ踏み入れることになるのだが、そこで彼女は通過儀礼なるものを体験する。

 大手ファッション雑誌「Runway」の編集長ミランダのアシスタントとして雇用されたアンドレアは様々な試練を体験する。まず彼女はミランダからエミリーと呼ばれ、自分の名を奪われることになる。これは通過儀礼の開始である「仮死状態」に陥ったことを意味する。そして彼女はミランダから様々な試練を突き付けられ、必死に食らいつきながらその試練をこなしていく。その姿はまさに通過儀礼といえよう。幾多の試練を乗り越えた、アンドレアは成長し仕事も軌道に乗り出したと考えていたが、次なる試練は、従来の人間関係の中から発生した。恋人や友人との間に軋轢が生じたのだ。そしてミランダもまた自身の夫との関係が悪化してしまい、離婚の危機にまで追いやられる。ミランダとアンドレアらの共通点は、キャリアを重視する女性であるということである。社会は、女性は家庭、男性は職場を見ていろと命令しているかのようにも思える。これこそが社会が生み出す働く女性を縛る呪い、呪縛であり、現代のジェンダー的問題が抱える課題である。物語終盤にかけて彼女は、ファッションの世界から遠ざかり元の世界へ戻っていくが、これはつまり、アンドレアは社会の呪縛に屈したことを意味する。通過儀礼の観点からみると彼女は失敗したといっても過言ではない。

 この世界は、キャリアを重視する女性からするとしがらみが多く、難しい世界であるといえよう。今の時代では、キャリアを重視する女性はミランダのように離婚という厳しい選択を迫られ、周りの男性からその立場を狙われるという苦境に立たせられる。対してキャリアを重視していたがそれを捨てたアンドレアは恋人と復縁することが叶い、成功を収めた。悲しいことに、女性はキャリアを重視することは現代社会からの許しを得られないのだ。アンドレアの「ミランダが男性だったら、誰も文句を言わない」という台詞。この映画で語られることは、ここに帰着されるのだと私は考える。

 では次章では『マイ・インターン』から働く女性を考察する。この作品もまたアン・ハサウェイが主演を務める。しかし、この映画では、『プラダを着た悪魔』におけるミランダのようなポジションを、アン・ハサウェイが演じるというところも興味深い。

 

Ⅲ 『マイ・インターン』における働く女性

 『マイ・インターン(原題:The Intern)』は2015年にアメリカ合衆国で製作された。

 主人公はジュールズ(アン・ハサウェイ)とベン(ロバート・デ・ニーロ)である。ジュールズはファッション通販会社の女性社長であり、ファッション業界で多くの成功を収めてきた、現代女性が抱く理想像のような女性。そんな彼女の会社にシニア・インターンとして雇用された70歳のベン。ジュールズが経営する会社は、まさにベンチャー企業であり、若者が多く、社風もまたカジュアルである。その会社へ70歳のベンがやってくることになり、当初は浮いた存在であった。しかし、ベンは長年の経験と穏やかな性格により、その会社に受け入れられていく。

 上司が女性で、部下が男性という時代に即したテーマである本作であるが、アメリカ社会における女性の社会的位置づけが暗に示されている。

 本作においてジュールズは女性社長として奮闘するが、会社はタスクを抱えすぎであり、CEOを雇うべきではないかという声が社内で高まっているところから物語は幕を開ける。そんなジュールズは、その多忙から家庭の時間を作ることができないという課題も抱えている。会社経営を行うジュールズを支援するため、ジュールズの夫は家庭に入り、専業主夫となった。育ち盛りである娘と夫に対して、ジュールズは罪悪感を覚えており、これまでいわゆるサラリーマンが抱えてきた課題を女社長のジュールズが抱えるのが本作の特徴であるといえよう。

 そういった家庭と仕事の問題を解決するためのCEOであるが、そのCEOの候補者達に対し、ジュールズは「女性差別者」であると否定的な態度をとり、自身が発展させてきた会社を他人に経営権を譲ることを忌み嫌う。これは「女性は仕事ができない」等という男性が考える女性への偏見のようなものを、ジュールズが逆の立場となり、男性への偏見を持っている。このようなジェンダーの役割の逆転がこの映画には随所に見受けられる。

 しかし、ジュールズの夫は浮気をしてしまう。原因はジュールズが仕事に追われ家庭の時間を作ることができないからである。キャリアを重視する女性はまた、このような形でペナルティなるものがもたらされる。女性がキャリアを重視することが困難であることがこの作品でも描かれる。

 最終的にベンのアドバイスのもとに彼女はCEOを雇わないことを選択した。そしてジュールズの夫は浮気を告白し、謝罪する。ここで物語は幕を閉じる。これはベンとジュールズの友情の物語である。ジュールズを取り巻く周辺の状況は一切変化していない幕切れは、先進的であるといえよう。

 

Ⅳ おわりに

 アン・ハサウェイが主演を務めた『プラダを着た悪魔』と『マイ・インターン』から、キャリアウーマンの社会的位置付けについて考察した。両作品ともに、ファッション界という現代女性が憧れる理想的なキャリアウーマン像を描いた作品であるが、女性であることがネックとなり、家庭や仕事に不備が生じてしまう。社会的には働く女性の地位なるものは未だ低いのが現状であり、映画の中でもそれが描かれている。

 現代社会には、「女性だから」という偏見が未だ残っており、その多様性が完全に肯定される時代は、まだ遠いだろう。そういった意味合いでは、「女性として」、「男性として」の新たな視点と姿勢、友情の形を提供した『マイ・インターン』は、ジェンダー論争に一石を投じたといえよう。