一般人の備忘録

思い付くままに何かしら述べています。

少年における神の存在とアイデンティティクライシス―『太陽の帝国』を観る―

※ネタバレ注意

 

Ⅰ はじめに

 現代にまで語り継がれ、今もメガホンを持ち、映画界で活躍し続ける、スティーブン・スピルバーグ監督。彼は『JAWS』や『Jurassic Park』のような、大衆娯楽作品を手掛ける一方で、シリアスな作風の作品の映画の作成も行っている。その例外のような作品に位置付けられる一つが、この『太陽の帝国』である。

 物語の舞台となるのが、第二次世界大戦最中の上海である。そして主人公は少年のジェイミー。彼は上海のイギリス租界で裕福な両親と共に何不自由なく暮らしている。しかし突然の日本軍の襲撃により、裕福な暮らしは一瞬にして失われる。ジェイミーは、ひとりで生きていくことになり、収容所での生活を余儀なくされる。多くの人物と出会い、様々な出来事を経験し、彼は終戦まで生き延び、親の元へと帰っていく。これが物語の概要となっている。しかしこの映画は、大団円ではなく、どこか含みを持ったまま幕を閉じる。

 ジェイミーはアイデンティティークライシスを経験し、「個我」というものが変容することになる。その要因となっているのが、「零戦」である。ではジェイミーにとって「零戦」とはどのような存在なのだろうか。

 

Ⅱ 少年にとってのゼロ戦

 ジェイミーにとっての零戦は、この物語において大きな意味を持つ。彼の部屋が映るシーンでは、天井から零戦の模型が吊るされているのが印象的である。彼は母親に「もし神がぼくたちより高いところにいるとするなら,それはつまり,高いところを飛んでいるようなものということなんだろうか?」と問うシーンがある。また自身を「無神論者」だとも言っている。このことから序盤のシーンでのジェイミーは神という存在を信じてはいないが自彼が崇拝する「零戦」が神に近しいものであると認識しているように思える。彼にとって「神≒零戦」なのである。ジェイミーは、零戦の模型を、ある種お守りのような形で持ち歩いている。その模型も、「十字架」のように感じる。

 しかし、彼は崇拝する「零戦」から裏切りを受けることになる。日本軍が上海に攻め込んできたのだ。零戦が実戦配備され、自分が崇める「神」としてではなく、「敵国」としての零戦がジェイミーの上空を舞う。彼は逃げ惑う群衆の中を、両親と共に進むのだが、はぐれてしまう。そのはぐれる原因となったのが、先述した「零戦の模型」である。逃げる中落としてしまった模型を取りに行き、彼は親とはぐれ、いわば「捨て子」のような状態に陥る。彼はひとりで生きていくことになる。

 その過程で、彼は日本軍が管理する収容所へと入れられることになる。そこでジェイミーは「神」としての零戦と対面することになる。彼にとっての「神との対峙」である。溶接の火花が飛び散る零戦に触れるジェイミーという構図は神々しく、まさに宗教的な出来事であるかのように描かれる。

 ここで、彼は更なる神と出会うことになる。収容所にアメリカ軍が襲撃をかけるシーンで、零戦は「P51」に無残にも破壊されることになる。ジェイミーは唖然とするのではなく、声高らかに叫び、興奮状態に陥る。これは「P51」が彼にとっての神であった零戦を超える新たな神が彼の中に誕生したため興奮状態になったのであると考える。が、すぐに彼は興奮状態から覚め、冷静になり、両親の顔を思いだせないのだと、ローリング医師に自白する。ジェイミーにとって「零戦」は「神」であるということでなく、「かつて屋敷で贅沢な暮らしを送りただ零戦を好きであったジェイミー」を思い出させる(リマインド)という一面も持っているのである。それを失ったからこそ、彼は自分のアイデンティティを失ったことに気付き、ショックを受けたのである。アイデンティティを喪失する過程は次章にて説明する。

 

Ⅲ アイデンティティークライシス

 彼はP51による、零戦(=かつての自分)の破壊を経験し、アイデンティティークライシスが起こり始める。アイデンティティークライシスとは、自己喪失。若者に多くみられる自己同一性の喪失。「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること、である(『デジタル大辞泉小学館より)。

 収容所は日本軍が管理していたが、撤退することになり、収容所にいた人たちは中国大陸を渡り歩くことになる。ジェイミーもその一人であり、あてもなく中国を歩き続ける。そこで収容所においてジェイミーのお世話役であったビクター婦人が亡くなることとなる。その時、空に太陽らしきものと、エネルギーの波のようなものが表れ、ジェイミーは目にする。ここでジェイミーはビクター婦人の魂が昇っていったのだと考える。後にその光について「神が写真を撮ったみたい」との発言をしている。彼は「無神論者」でなくなったのだ。言葉を変えると「無神論者」であったジェイミーはいなくなったのだ。これもアイデンティティの喪失である。ジェイミーは終盤のシーンでこのようにアイデンティティを一つ一つ喪失していっているのだ。愛用していた零戦の模型等が入ったスーツケースを捨てたシーンもアイデンティティの喪失の一つである。

 そうしてアイデンティティを喪っていく過程で彼は飛ぶことに憧れたもの同士という絆で結ばれた日本人兵士を蘇生するシーンがある。そのシーンでジェイミーはその日本人兵士とかつての自分を重ね合わせることになる。自分のアイデンティティを取り戻そうと試みるのだが、これは叶わない。彼の中にかつてのジェイミーはもういない。その後、ジェイミーは両親と再会することになるのだが、両親が知っている「ジェイミー」はもういないのである。いるのは「ジム」である。

 

Ⅳ おわりに

 ではこの映画は単なる「ジェイミーの成長物語」なのか。私はこの映画は「ジェイミーのアイデンティティを奪った戦争に対する批判」といったメッセージを感じとった。劇中を通して、ジェイミーが成長した要素は何かあるだろうか。収容所に入れられ、最初は苦労していたが、様々ことを経験し、生きる術を身に付けていったのならそれは彼の成長物語だ。しかしジェイミーはもともと図太い神経を持っており、過酷な環境下での生存競争(exist in a harsh environment)というのには比較的、十分な適正があるように見られる。彼は物語開始時点から「生きる」ことに対しての素質を持っていたのだ。成長などしていない。一見成長に見える描写も、突き詰めていくとただの「アイデンティティの喪失」だ。

 ジェイミーはがもつ、零戦の模型は、「十字架」のようなものであると前述したが、「十字架」はイエス・キリスト磔刑されたときに、用いられた。いわゆるイエス・キリスト公開処刑である。形而上学的な話ではあるが、ジェイミーの場合、彼のアイデンティティは、映画を観る観客らの前で公開処刑されているのだ。

 スピルバーグ監督は、この作品で戦争によって成長を遂げた少年を描きたかったのではない。戦争によってアイデンティティが破壊され、別の人格へと変容させられた少年を描きたかったのだと考察する。そして以上のように少年のアイデンティティを破壊する戦争への批判を、この映画にメッセージとして込めたのではないだろうか。

 

 

太陽の帝国 (字幕版)

太陽の帝国 (字幕版)